「だめよ 好きよ」20190113
名前すら知らない相手と気づいたらホテルに居た。
どこが好きだとか惹かれるだとか、理屈を超越して求め合う兼さんと国広、二人のお話。
サンプルで半分まで掲載。
オフライン情報はこちらからどうぞ。
「男同士ってどうするの?」
ダブルベットに着衣のまま腰掛け、上半身だけで抱き合った国広が鎖骨に額を押し付けて不安げに呟く。
「ここは男も女もないだろ」
顎を持ち上げ、親指で下唇の輪郭をなぞると、覚悟を決めたように目を瞑ったので手慣れた風を装って口付けた。
皮膚の薄い部分とはいえ、重ねたら即性的興奮に繋がる刺激が走るわけでもなく、こんなものかと張り合いのなさを覚えたが、国広は怯えているのかギュッと体を丸くしていた。調子に乗って三回、ちゅ、ちゅ、ちゅ、とからかうように啄ばんだらやっと目を開けて
「キス、したね」
と、うっとりしたような困惑したような口調で呟いた。
誰にも邪魔をされない二人きりになれる場所は意外に思い浮かばないもので、どこぞの重鎮や業界人なら隠れ処の一つや二つ(じゃ利かないか)あるのだろうが、完全な個室といえば庶民のオレたちにはカラオケボックスかここ位しかあてが無かった。
――昼休憩・三時間二千円
近場で看板が出ていたという理由で入室したものの、利用客の少ない時間帯とはいえ後から理由をつけて上乗せされるのを勘繰るほどの安価だ。
部屋の参考写真がついたパネルはほぼ点灯し選び放題で、つまりは客が居ないのだろう。
「どれにする」
と一応尋ねてみたら、口をあんぐり開けたまま、真っ白で統一しているであろう壁とベッドと家具すべてをぶち壊すギラついたステンドグラス調の天井の部屋を指差したので、そこに決めた。
受付の小窓からルームキーを投げるように寄越した老婆の手と古い造りの建物から、安さの代わりにサービスは放棄するという意志を受け取り階段を上る。エレベーターは故障中の張り紙があったが、その黄ばみ具合から万年故障中なのだろう。
三階まで一度も振り返りはしなかった。いつでも逃げるタイミングはあっただろうに、俯きながらも律儀に着いてきたので、それなりの心構えはあるのか。扉を開ける前に念のため「歳は?」と確認すると、大丈夫と頷いた。
「貴方は?」
「オレ?」
「もう大人?」
「……大人」
「そっか。じゃあ、いんこーにならないね」
頭一つ以上小さい相手に安心されて惑うが、眼球が大きい可愛らしい童顔であるも子供っぽさは不思議と感じないので、もしかするとオレより年上なのかもしれない。
室内は六畳程度で写真で見るより天井のステンドグラスの圧迫感が凄い。やたらでかい空調と、テレビがまさかのブラウン管で最早骨董品だと絶句したが、椅子に座らせられた項垂れたクマのぬいぐるみがこの空間はもう二度と年を取らない事を物語っていた。聞こえ良くレトロでモダンとでも評しておこう。その手の好みならむしろ歓喜するかもしれない。
「なんか、懐かしい感じの部屋だね」
やんわりと同じような感想を口にするとクローゼットにコートを掛けて、肩がけのトートバッグも一緒にいれて扉を閉めたので、思わず
「いいのかよ」
と聞いてしまった。
きっと財布なり身分証明書なりの貴重品が入っているであろうそれをなんの警戒心もなく仕舞い込んで不用心だと言いたかったが、
「うん。僕は寒くないよ」
とケロリと笑われてしまったので、性善説主義なのかもしれないなどと思いながらオレもコートと尻ポケットに入れていた財布をポイっと投げ込んだ。
「わっ。凄い。ベッド凄い。体が埋まっちゃう。ほら」
骨董の室内でベッドのマットレスだけは現代のもので、昭和から21世紀にタイムスリップしたように二人して「本当だ」「でしょう」と高揚し無駄に尻で跳ねた。
何度か飛び跳ねた着地時に肩を引き寄せて抱きしめるとキュッと小さく縮こまり、動揺で瞬きの回数が増えた。遊んでいる最中に水を差したようで悪いが、急に愛おしくなって自然とそうしてしまったのだ。
「なぁ。名前聞いていいか」
出会って三十分、ようやくこの問いが出た。
「ほりかわ。堀川国広」
「くにひろ……」
声に出すと
「うん。そうだよっ」
と胸に顔を押し付けて感極まった声が滲んだ。
「オレは」
「うん」
「和泉守兼定」
「いずみの、かみ……」
一文字一文字確かめるように呟く。一気に発音しにくいと度々言われてきた名前だ。
「ねぇ、いずみの、かみ、さん」
ここで冒頭の問いかけに繋がるのだが。
――男同士ってどうするの?
そんなもの知らないとは言えない。
何故かオレがこの手に関しては知識も経験も兼ね備えた百戦錬磨だと盲信されている雰囲気を感じたが、何をもってそんなイメージを抱いたのだろう。今だって室内の明かりを消すべきか、消すならどのタイミングでどんな所作で行うべきか頭を巡らせているのに。
とりあえず中学生でも思いつくであろう、抱きしめてキスをするというお手本のような流れだが、ここから先がどうなるのかどうするのか未知の領域で落ち着かない。
「なんか、眠くなっちゃった」
膠着状態を破ったのは国広で、やはりうっとりしたような困惑したような口調だった。
尻が隠れる丈の厚手のパーカーと太めのジーンズは横たわるにはごわごわして邪魔そうに見えて、
――ああ、そういうことか
と「脱ぐか?」と聞いたら「だいじょーぶ」と返されて頭を抱える。
「いいよね、ホテルのベッドって。家のと全然違う。って、うちは布団だけど」
天井のステンドグラスをぼんやり見つめる国広は寛いでる風に脱力して瞼を閉じた。このタイミングだろう、と顔を近づけるとパッチリ開いた大きな大きな碧色の瞳が意外そうにオレを見入る。意外もなにも、これ以上ない自然な所作だと思うのだが。
「キスは、駄目」
「はあ?」
そりゃあ、こうも言いたくなる。はあ? だ。
「キスはもう駄目。しちゃ駄目」
覆いかぶさり両手首を掴んでするキスは犯しているようで、趣味ではないのに呼吸は荒くなった。体格が一回り小さいとはいえ拒絶と受け取れる言動はないので、反抗するように何度も口付けた。
何度してもキスはやはり張り合いがないと思う。唇の皮膚と皮膚をくっつける事を特別な行為としようと定めたから特別な風に思い込んでいるだけで、外国では挨拶がわりというのも分かる気がする。握手のようなものなのだろう。だから半身が滾る原因が始めは分からなかった。意識下に無い体の興奮がドクンドクン脈打って耳に響いても、それが自分のものなんて思いもよらなかった。
その言葉を聞くまでは。
「駄目って言ってるのに」
「なんで」
「だって」
少し、息詰まって、吐く。
「好きになっちゃうから」
語尾は言い切れていなかったと思う。
歯止めが効かない衝動は自身のものだからこそ怖かった。無理な角度のせいで歯が当たった風になったりもしたし、キスなんて特に気持ち良いわけではない。
それでも、禁じる言葉を塞ぐ度に高揚する。何故か。「だめ、だめ」と繰り返す語尾が蕩けたように消えそうなのは、何故か。不良な子供が美味いわけでもない煙草や酒をしたり顔で口にするように、殊更甘美に見える禁断の果実をかじる行為だけで満たされるのか。
睫毛に涙が滲んだ国広の「だめ」がとうとう打ち消えてやっと静止出来たが、服に皺を作りくったり横たわる姿は憐憫を覚えてきまりが悪くなる。それでもパーカーの胸元を抑えて呼吸を整える様は健気で、オレを責めるなんて思いもつかないようだった。
「……なりゃいいだろ」
横に並んで寝転ぶと、国広は頷いた気がしたが、単なる思い込み、願望だったのかもしれない。
「なれよ、好きに」
若干の苛立ちも混じらせて呟いたが、横顔すら見る勇気がない。ステンドグラスの配色が最悪だ。ダサい。どうでもいい。
どんな表情をしているのか。返答の代わりに人差し指と中指を体の横につけた手にそっと這わせてから包むように握られると、催眠術で指をパチンと鳴らした瞬間のように意識がなくなった。
気がつくと隣には皺の寄ったシーツだけが在って、はなから一人で訪ねてきたかのように気配が消えていたので夢でも見ていたのかと思ったが、律儀に制限時間終了間際に備え付けのアラームがセットされていて、けたたましい音が響いた。
念のため財布の中をあらためたが、増えも減りもしておらず、なんならルームキーを返却し清算しようとしたら老婆のしゃがれ声で「もう貰ったよ」と追い返された始末だ。
ナンパした相手に気がすむまでキスをして、三時間二千円を奢られてしまった。
これを役得と思えるまで堕ちたくはない。
――名前は堀川国広。大人。自宅の寝具は布団。
どれも本当かは定かじゃない。童顔の大人ではなく老け顔の子供かもしれないし、真実味を持たせるために嘘の中に少しの本当を混ぜたのならば、自宅では布団で寝ていることだけが本当かもしれないし、本当臭さのある嘘かもしれない。
ただ、一番に疑いようのある名前だけは偽りが無かったように思えた。
「くにひろ」
アパートの薄い壁に吸い込まれた呼びかけはやはりしっくりきた。
晩御飯の豚の生姜焼きに添えるキャベツの千切りの最中にも、湯船を張る為に冷水と温水の加減を調整している時も、やや伸びて靴下に引っかかりそうな足の爪を切っている時も。その名前はいつどこで呼んでもしっくりきた。だからこれだけは本当なのだろうと直感した。もし、実は偽名でしたと種明かしされる日が来たら、お前の真名はこっちだから改名しろと迫るだろう。
あいつは今頃布団に包まっているのだろうか。
ソファーベッドから足首を投げ出しながら見つめる天井は白いクロスに少しヒビが入ったいつもの景色で、配色が無茶苦茶なステンドグラスは趣味が悪いが自分ではとても選ばないという意味で面白かったなとも思った。国広もそんな印象から期待してあの部屋を選んだのだろうか。
不思議な一日だった。
交差点の信号待ちで大きな風が吹いて、砂埃から顔を覆った時に後ろから聞こえた「わぁ」という声に振り返ってからの全てが、当たり前の事のようだったのが不思議だ。自然とホテルに直行して同衾にまで至った。キスも、たくさん、した。至極当たり前の事のように。
どこが気になったとか惚れたとかそういう類の理由づけではなく、人生に組み込まれた装置が来るべき時に作動したような感覚だった。
惹き寄せられた、というのかもしれない。
もぞもぞとスウェットに手を入れ、自分の下腹部をまさぐろうとして、やめた。なんとなく。なんとなく、脳裏にこびりついていたあいつの「だめ」という声が制した気がした。
しかし翌朝、第二次性徴の始まり以来の就寝中に下着を汚す不快さで目が覚めて「あーあ」と落胆するのであった。
細い通路が入り組み、路駐に厳しい住宅街への配達は主に専用の自転車で行なっているのだが、嵩張ると重い野菜をいくつもの棟に別れた団地の階段を駆け上がって配り、行き帰りに坂道まで挟むのだから、ペダルを漕いでいる最中は太ももはパンパンに張り、呼吸は乱れている。冬は乾燥している分余計に喉がヒビ割れて血を吐きそうだ。
ふらつきながら、現実逃避したように本来曲がるべき道をまっすぐ突き進んだ時に我ながら疲れていると思いはしたが、多少遠回りになる程度だろう。せめて呼吸が整うまでは迂回しても罰は当たるまい。言い訳しつつ、ようはサボっていると、不意にピンクの象を模した滑り台が視界に入った。そういえば「ゾウ公園前で移動販売している弁当屋は安価で種類もそこそこあり良い」と客との世間話で幾度か聞いたのを思い出した。適当に相槌を打ちながら「ゾウ公園てなんだよ?」と疑問を抱いていたが、なるほどここが件の公園だろう。遠目からでも目立つデフォルメされた象は近づくと本物を横に太らせたような大きさで立派な遊具だった。
弁当屋、弁当屋。折角なので探してみる。
出来れば暖かなスープなんかがあると嬉しいが、弁当屋に求めるのは酷だろうか。そんな想像に重なるようにふわっと食欲をそそる味噌汁の香りが鼻をかすめた。現在地の向かいにあたる公園の端っこに停めてある紺色のキッチンカーからだ。最後尾に居た壮年の男が弁当を受け取ると「ありがとうございました」と数名の声が混ざってこだました。
自転車を停めて覗き込んだ。商品の受け取り口にあたる窓部分が開いて屋根のようになっていて、車体にメニューが貼ってある。どれにしようか。
――毎週◯曜日はハンバーグ弁当がオススメ!
赤くポップな書体で強調された謳い文句と肉厚にデミグラスソース、さらにチーズがとろけた旨そうな写真に惹かれて自然と感嘆の声が漏れた。
これにしよう。尻のポケットから自分の財布を出して店員に声をかけようとした時だった。
「すみませーん。ハンバーグ弁当完売しちゃいました」
受け取り口から顔を覗かせた店員が碧色の大きな目をさらにまん丸に輝かせてオレを捉える。
「あー! 兼さんだぁ。久しぶりだねっ」
呆気ない。
初めて声をかけたあの日から二週間、ドラマチックな再会をどこかで夢見ていた自分に気づきげんなりする。
「兼さん、て、なんだ」
たどたどしくオレの名前を口にし、腕の中で小さくなっていた姿と同じとは思えない溌剌とした受け答えをする国広は眩しくて気後れした。
「あれ。呼ばれてない? 兼さん、て」
「誰一人呼ばれた事がねえよ」
「そっか。でも、いいよね。ね、兼さん」
車高がある分、本来より高い目線から向けられた笑顔は屈託無くて「いいよ」と返答するしかなかった。
「ごめんね、ハンバーグもう出ちゃったんだ。チキン南蛮か鯖煮とかどうかな」
「じゃあ、チキン南蛮」
「はい。お味噌汁もつけるね」
持ち歩きやすいように蓋のついたカップに味噌汁を注いでくれるのはこの寒い時期には有り難い。手渡されてすぐに一口飲んでしまった。乾いた喉に染みる。
すでにある程度おかずが入った容器にもう一人の金髪のスタッフが手際よく炊飯器からよそったご飯を盛ると、国広も手馴れた素早い手つきであっという間に蓋を輪ゴムで閉じ、袋に入れて「お待たせしました」と愛想よく差し出してきた。
「慣れてんな」
昨日今日始めたようには見えない。
「うん。この場所では先月からだけど、キッチンカー自体はお陰様でもう二年目だね」
言いながら、オレの様子を伺っている。
「オレは配達の帰り」
と言うと、色々聞きたいことがありそうな顔をしていたが、後方に客が居たらしく切り替えて声をかけていた。口惜しいがお互いに仕事中なのでグダグダ話しこんでいる場合ではない。
「六時!」
新しく来た客がまだメニューと睨めっこしている隙に告げる。
「ここで待ってる。来るまで待ってるからな。じゃあ」
国広は客から注文を取りながら横目で反応はしていたが、明確な返事は得られないままオレは振り返ることなく自転車を漕ぎだした。
得意の「だめ」など聞きたくなかった。
会いたかった。ずっと。
いざ寝ようって時にお前の火照った「だめ」が何度頭の中で繰り返されたか知らないだろう。お陰でしばらく寝不足だ、なんて言ったら困惑するだろうか呆れるだろうか。
渇いた喉、張った太もも。感覚の全てがあいつの顔で塗りつぶされて、気がつけば店に戻っていてチキン南蛮を頬張っていた。
「……旨いな」
呟いて、満足そうに笑う国広がまた浮かんだ。
走った。兎に角走った。
足がもつれないように左右交互に踏み出す事を意識してる最中も自転車を漕いでいる時の比じゃない程に口の中に鉄の味が広がっている。こんなに必死に走る事なんて今までに無かった。
来るまで待ってる、などと言っておいてまさか残業の挙句道に迷って遅れるなど話にならねえ。
頼む。居てくれ。頼む。
祈りながら到着した陽の落ちたゾウ公園(正式名称は知らない)は、動物を模した遊具がみんなどことなく気落ちした顔をしていた。
バネのついた羊とパンダ。ゾウの鼻の滑り台。水色のジャングルジム。四つ並んだブランコ。
どこにも居ない国広を探して視線が彷徨う。
「あっ! 兼さん、やっと来た」
背中の方から声がして振り返ると、地面に半球が埋まった意図がよくわからない遊具に空くいくつかの穴の一つから国広が顔を出した。
ベンチもあるのになんだってそんなところでと思ったら
「寒かったから隠れてた」
と穴から半身だけ出た状態で鼻と耳を赤くしてはにかまれて、待たせた詫びを言う前に口付けてしまった。
急に顔が近づいて驚いたのか、きゅっとつぐまれた唇は薄く冷たかった。
「だ、だめだよ」
また得意の「だめ」かよ。こんな場所で急にするなとかそんなところか、まどろっこしい。誰も居ないのだから嫌じゃないなら良いだろうと身勝手な苛立ちが浮かぶオレを見つめながら、国広が自身の口を抑えて不安そうに呟く。
「さっき肉まん食べちゃったから、臭いがするでしょ」
「わ、分からなかった」
「……そっか」
じゃあいいよね、と耳に届く前に首に腕が回って、ぷっくりした感触が唇に押し当てられた。
引き寄せられて前屈みになりながら、こんなにも柔らかかったか? と回想する。顔にちょんとついた厚めのヒダ、ただの皮膚同士がくっつくだけで甘く痺れてくるなんて。
「ちょっと暖かくなった気がするね」
真っ赤な耳のまま微笑む。
「こんなところで何してるの僕ら」
「……キス」
「ね、この遊具なんて名前なんだろ」
「知らねえよ」
「はは。知らないところでキスしてる」
脇を掴んで穴から引っ張り上げると、わっ! と愉快そうな声を上げて、はしゃぐように抱きついてくる。
「悪ぃ。遅れて」
「ううん。いいよ。ちゃんと来てくれたから、いい」
着地してもずっと抱きついたままの国広を抱きしめ返したら、防寒具のはずのコートの表面が冷たくなっていて堪らなくなった。
「良くねえ。寒かっただろ」
「うん。でも穴の中は風除けになったよ」
額、鼻の頭、頬、顎から首のライン。冷たくなったそれらを包むように撫でるオレの手も冷たいのだから意味など無いのだけど、
「こんなにして」
ずっと、待っていた。オレを。細い体をこんなに冷やして、腹を空かせて。約束の時間になっても現れず、どれだけ不安がらせただろう。
生まれてこの方「ごめんなさい」なんて言葉を口にした事はない。自尊心のせいか単に本心ではないからか、それっぽい意味合いの別の何かで誤魔化してきたけれど、今だけはこうとしか言いようがないのだと思う。
「ご」
「いいよ」
スッと切り込みを入れるような、まっすぐな声と
「暖めてくれるなら、いい」
それ以上言うなという強い眼差しだった。
「だめだって言ってもやめねぇからな」
冷たい手を引っ張って歩き出す。
国広は何も言わない。
ダッフルコートにホテルで見たのと同じ肩掛けのトートバッグを下げて、きっと特別じゃない日常的なスタイルのままオレに着いてくる。
「あー、明日も仕事か?」
公園から十分程歩いてようやく、キッチンカーはあの公園で営業していてもその仕込みをするような本来の職場は別にあるのではないかと気づく。そうだとすれば職場からは遠去かるだろうし、おそらく自宅からも。
国広はコクリと頷き
「仕事、兄弟でやってるんだ。三人で」
と打ち明けた。今日オレの弁当にご飯をよそっていた金髪は兄弟だったのか。顔はよく覚えていないが。
ならば帰宅の時間も加味して行き先を再考すべきか、と思案していると
「でもね」
と国広が照れるようにバツの悪そうな顔を上げた。
「さっき、待ってる間に電話して……」
言いにくそうに語尾がどんどんしぼんで言葉を失うので
「電話?」
と合いの手を入れると
「言っちゃった」
と秘密を明かすように赤面で発した。
「今日は帰らないって、言っちゃった!」
グッと何かがこみ上げて、伝染したみたいにオレの顔も熱くなっていくのがバレないように歩く速度を上げる。
「五分! ここの裏道突っ切って!」
すっかり暗くなった住宅街の、普段は野良猫しか通過しない両肩スレスレの細い道を加速していく。
「オレんち!」
繋いだ手がギュッと固く結ばれて。もうほどけないような、そんな気がした。
アパートの鉄骨階段を叩きつけるように登り二階奥の扉を蹴破って引き摺り込んで早々、靴箱すら置けない狭い玄関で頭ごと抱えて口付けても、がっつき過ぎだと呆れるでも怯えるでもなく、国広の小さな口と舌はオレを受け入れていた。
背伸びして回した腕がオレの頭を引き寄せて、互いにぶつかるようなキスに
「はぁ、が、我慢。でき、なかったね、はぁ」
息継ぎしながら笑う顔が酸欠で赤くなって、少し冷静になれた。
玄関に面した台所を通ってワンルームの部屋に招くと、小さく「お邪魔します」とかしこまった声を今更出したのがなんだか、いい、と思う。
来客用の布団も無い一人暮らしの部屋は寝に帰ってるようなもので、殺風景で小洒落てるわけでも利便性が高いわけでもなく、雰囲気ってものが完全に欠落している。
それでもカーペットの隅っこにちょこんと正座する国広一人居るだけで部屋の空気が変わった気がする。
ソファーベッドのリクライニングを倒して手招きすると、畳んだコートを置いて立ち上がり、やっぱり隅っこにちょこんと浅く座った。
「悪ぃな。狭くて」
「ううん。片付いてて、立派だなって思っちゃった」
緊張している肩に手を回す。生成色をしたローゲージの厚手のセーターの感触は見た目より柔らかい。
ゆっくり皮膚をくっつけるような口付けをしたまま背中の方に押し倒すと、国広の座った状態の半身が軽く宙に浮いて、ソファに寝転ぶように足が着地した。
押し倒した状態でぽってりした下唇の厚みを人差し指でなぞり、確信する。
「今日はなんか塗ってるだろ、ここ」
指摘すると、国広は困ったような顔で照れて、聞こえないくらい小さな声で「うん」と頷いた。
「カサカサだったら、嫌かなって、思って」
「甘い匂いがする」
「さくらんぼの匂いって書いてた、かも。待ってる間にコンビニで買ったやつだから」
嗅ぐと、確かにそれっぽい香りだった。
「美味そうな匂い」
呟くと、ほっとした顔をして目を閉じた国広が
「食べていいよ」
と冗談ぽく言ったので、下唇をペロッと舐めてから吸い付くみたいに味わった。
「キスはだめなんじゃなかったか」
意地悪ぽく囁いてみたら、存外晴れやかな顔で
「ううん。もう、いいんだ。だって、多分ずっと好きだったから」
とはっきり言い切るのだから、国広は飾らない性分なのだろう。
「ずっと、って。あの日初めて会ったんだろう、オレたち」
「そうだけど。でもさ、兼さん」
見下ろしている先から伸びた腕がオレの首に絡む。
「そうじゃないって、わかっているでしょ」
「……ああ」
あの日、振り返った時に目が合った碧色を、オレたちは知っていた。
そんなわけがないのに、何故だか、そうとしか言いようのない懐かしさを抱えて、名前を口にして確信した。この為に生まれてきたのだと。
「国広」
ビー玉みたいな碧色にオレが映ってる。
「……さくらんぼ。オレにも、つけて」
「うん。ちょっと待ってね」
腕を伸ばして手繰り寄せたトートバッグから取り出した赤いチェックの蓋をした小さな容器を開け、人差し指を滑らせて掬った軟膏をオレの唇の皺に合わせて縦に塗る仕草は、母親が子にするものだった。
「兼さんもツヤツヤだ」
唇を触られているから口が開きにくい上、どこか満足げな国広には悪いが
「いや、そうじゃなくて」
と断り、同じように掬った軟膏を国広の唇に擦り込み、自身の唇を押し当てた。
「……こういうやつ」
「あ」
赤面した国広が
「ご、ごめん! そっか。僕、全然色気ないね。ごめん」
と、慌てて顔を覆う手を制する。
「兼さん」
【以下、同人誌本編に続く】
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